卒業式を全力で祝うことにした
卒業式の季節みたいです。
レミオロメンが3月9日っつー曲を歌うぐらいだからね。
3月の風に思いを乗せていきましょう。って。
卒業式や入学式。学生の頃、そーゆーのが苦手だった。といってもまぁ学校行事全般にも言えることだったか…。
「苦手」というより、正直どうでも良かった。世間一般で言われるほど、親族たちが騒ぐほど、当の本人は気にしてるいなかった。そんな感じ。
そんなモノトーンな俺のテンションとは裏腹に、赤い造花のついた胸章をつけさせられ、嗚咽する女子、はしゃぐ親族。その何とも言えないアンバランス感。
もちろん涙を流すこともなく、それは自分を冷徹な人間だと疑ってしまうことにもなり、案外辛かったりしたものです。
働き始め、学生の記憶もどんどん薄れてきたけれど、卒業式に対する思い入れが強くなった気がする。
学生として、義務的に入学させられ卒業させられる。自らの心境や能力に関係なく、訪れる節目。
人として生まれ、健やかに成長した。その「生きてきたことを祝う」入学式や卒業式、
それは社会に出ると、ほとんど経験することのできない、ある種特別なものであったと。
社会人になっても、昇進や業績で祝われる節目はあるけれど、無条件に祝うことっていうのは殆どない。
「卒業式かぁ」そんな話を知人と交わしていると
「弟が高校入学を目前にして、入院したんだ。」
と、彼の15歳の弟の話を聞かされた。
体調不良が続いた為、病院で点滴を受けたのだが、投与された何らかの物質にアレルギー反応を起こし、緊急入院となったらしい。
詳しいことは聞けなかったけれど、身体中の粘膜がただれ、失明・命の失う可能性もある難病。
自分のすぐ近くで起こった不条理に心が締めつけられた。
面識のない15歳の少年の苦しみ。
成績や素行が悪いとか、そんなことは小さな事で、子供が健やかに成長することは、それだけで素晴しく祝うべきことなのだと痛感した。
同時に、これまでの自分の浅さにすごく落胆した。
もっともっと想像力を持って生きていこう。
遠い出来事も、身近に起こりうる現実として、丁寧に生きていこう。と。
この春、甥っ子が小学校に入学する。
少し大きな制服を着た彼と満開の桜を想像して、素敵な写真を撮ろう。と色々とシチュエーションを考えている。
「おめでとう」と、これまでにないほど素直に、心から思えそうです。
きんぐぅ